穏やかな愛媛県人はお遍路の影響を受けている?
愛媛には、四国八十八ヶ所を巡礼する人たちにとって「やさしい」場所だといわれます。お遍路さんに無償で飲み物や食べ物などをふるまう「お接待」も盛んに行われ、まさに「おもてなし」の精神が息づいています。
都から遠く離れた四国は「辺地」と呼ばれました。遍路は、辺地を巡ることであり、四国の海辺や山地に踏み入って修行をすることが根本となるのですが、札所巡礼のうちに四国の各地を巡錫して人々を救済しておられる大師の魂にめぐり会い「同行二人」の旅を進めていくのです。
かつては四国遍路を行う際には、檀那寺または庄屋の発行する通行手形を持たねばな離ませんでした。手形には、万一病死した場合には土地の風習に従って葬ってもらい、国もとへの通知はいらないことがしたためてありました。遍路の白衣姿は死に装束。また、納札用に札をはさむ板をつくり、表には「奉納四国中辺路同行二人」、裏には「南無大師遍照金剛」と書き、中にはさむ納札には「奉納四国中遍路同行二人」と書きました。四国霊場を札所というのは、納札を本堂の柱などに打ちつけるところから、「打つ」ということばが霊場詣りの意味にもなったのです。
日本女性史研究に生涯を捧げた高群逸枝は、24歳の頃に八十八カ所を巡礼し、その記録を『お遍路』や『娘巡礼記』として綴っています。逸枝は『お遍路』に
どんな不信な者でも、足ひとたび四国に入れば、遍路愛の雰囲気だけは感ぜずにはいられまい。ここでは乞食同様のみすぼらしい人であろうが、病気で不当な虐げを受けている人であろうが、勝ち誇った富家のお嬢さんであろうが、互いになんの隔てもなく、出会う時には必ず半合掌の礼をする。これは淡々たる一視平等の現われで、世間的な義理や人情の所産ではない
と記しています。逸枝は同書に「土佐海道は苦しく、阿波のそれは侘しかった。讃岐海道は空しく、伊予のそれは尊かった」とも記しており、愛媛県人のおもてなしは、昔から格別のものだったようです。 |