銅生産に伴う煙害
明治維新後、新政府より経営を保証された住友は、フランス人技師ルイ・ラロックにより施設の近代化が図られました。それに伴い、採鉱量も飛躍的に増えたのですが、精錬の段階で発生する亜硫酸ガスにより、近隣に大規模な水稲被害が発生しました。農民と精錬所との間で紛争が絶えません。
煙害を避けるためには亜硫酸ガスを取り出すのが最良の方法ですが、技術力の乏しい時代でしたから、大量の煙を処理することはできません。明治28年(1895)、住友は新居浜市北方沖合20kmの無人島である四阪島を買収。170万円の巨費をかけて明治38年(1905)より精錬所の操業を開始しました。しかし精錬所が四阪島に移転したことにより、煙害は越智郡のみならず周桑郡、新居郡、宇摩郡と、東予地方全域が被害を被りました。
明治42年(1909)、当時の一流と呼ばれる学者たちで構成する鉱毒調査会から「硫煙希釈法」という新技術が提案されました。高い煙突から放出していた煙を数本の低い煙突で放出し、外気を混ぜて薄くするというものでした。こうすれば、煙の濃度が低くなり、遠くまで煙の被害が及ばないと考えたようです。大正4年(1915)までに6本の煙突が完成して稼働したのですが、薄められた煙は上昇せず、煙突の上で留まって四阪島一帯がより高濃度の亜硫酸ガスに覆われ濃度が高くなってしまうという失敗に終わりました。この方法は効果がないことがわかり、わずか2年半で6本煙突の使用は停止されています。
一流学者による改善方法は被害を増し、事態を更に悪化させました。東日本大震災の際の原発御用学者たちの発言を彷彿とさせるものがあります。
明治43年(1910)、愛媛県知事伊沢多喜男により調停案が出されます。精錬鉱量を制限するために短期の操業停止などが講じられ、住友と東予4郡の間で賠償協定と補償金が決定しました。賠償金は愛媛県に納められ、米麦専用の農事試験場である「採種場」の運営に当てられるとともに、被害額の割合で郡単位に配分されました。
煙害は昭和4年(1929)よりペテルゼン式硫酸製造装置が導入されます。の発生が抑えられ、昭和14年(1939)には硫黄酸化物をアンモニアで中和する工場が完成。これにより、煙害に悩まされることはなくなりました。
昭和2(1927)年、ペテルゼンと正式に特許実施契約を結び工事を実施。溶鉱炉の煙突から放出される亜硫酸ガスをアンモニア水で中和して、すべて亜硫酸アンモニアの溶液として回収するものでした。さらに選鉱操業の変更もあって、放出される亜硫酸ガスの量は減少。その濃度も希薄となり、実害を伴う煙害は見られなくなりました。昭和14(1939)年7月に大規模な中和工場が完成して以降、煙害の被害を根絶することができました。 |