土井中照がお送りする「ミラクルワールド=愛媛」のご紹介です。
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別子銅山と四阪島の煙害

別子銅山の発見

別子銅山は、一説によると元禄3年(1690)6月に、立川銅山(現、新居浜市立川山)で働いていた鉱夫の長兵衛や源四郎らによって発見されたと言います。この発見は、住友家(=泉屋)が稼行していた備中国の吉岡銅山に報告されました。長兵衛は阿波国の生まれで、立川銅山の前は吉岡銅山で働いていたのです。

吉岡銅山の支配人田向重右衛門らは、報告を受けた年の秋、四国山中に有望な鉱脈があるとの知らせを聞き、船で瀬戸内海を渡って、海抜1200m級の険しい赤石山系の小箱峠を越えて別子山村の弟地(おとじ)に到着します。さらに銅山川の源流に向かって川を遡り、うっそうとした密林を進んだ果てに、地面に飛び出した露頭を発見しました。そこは歓喜間歩(坑道)と名付けられました。標高およそ1210m付近て、地名は、重右衛門一行が発見に際して抱き合い、歓喜したことにちなんでいると伝えられています。

鉱脈を確認した住友家は、この年の10月から翌年4月にかけて幕府に採掘を出願。元禄4年6月から9年5月までの採掘を許可されました。当時幕府は金銀の生産低下と海外流出対策に迫られていましたから、貿易決済用に関わる産銅増加は、幕府の至上命題でした。幕府は金子村(現、新居浜市)の源次郎や尾張留右衛門らの稼行願を却下し、資力・経験に富む住友家に採掘を許可したのでした。

源次郎は、貞享4年(1687)から試掘を開始していたにもかかわらず、幕府の許可はおりませんでした。

別子銅山の発展

歓喜坑のすぐ脇に歓東坑が作られました。2本の坑道は、明治に至るまで200年間、別子銅山の主要坑道として機能しました。ここから運び出された鉱石は、やや下った谷筋に設けられた吹所や床屋と呼ばれた製錬所で、粗銅に製錬されます。

当時の坑口は丸太をマス型に組み、小丸太材(矢木)を並べて地山の崩落を防ぐ「四つ留」工法でしたから、危険を伴います。坑口から数組の支柱には、それぞれに神仏をまつり、地中での安全加護を祈願しました。

旧別子では、鉱石を掘り出すだけでなく、そこで選鉱や製錬も行われています。鉱石を掘り出すのは、もちろん手作業で、軽易な道具を手に、坑道を削り取るように掘り進めました。取り出した鉱石を運び出し、砕いて銅を含む部分を選別する作業を担ったのは、女たちでした。

さらに、選鉱された鉱石は硫黄分を抜くため焼き窯で蒸し焼きされて焼鉱となります。焼鉱は、鉄などの不純物を除去するため、土中に掘った吹床(炉)で火が焚かれて不純物が取り除かれ、純度90%の粗銅(荒銅)が完成します。

別子山村には、こうした工程を担う焼窯が300、製錬所の「床屋」が数十もその軒を連ね、一大製錬工場の体裁をなしていました。そのため、山間の狭い場所に数千人が暮らす鉱山町となり、焼竈が立てる煙が一帯を覆っていたといいます。

製錬された粗銅は、急峻な山道を人手によって下ろされ、船で積み出されて、大坂の住友銅吹所に送られ、純度99%まで高められた銅は、棹の形に鋳造され、輸出用として長崎に運ばれたのでした。別子銅山の年間製鋼量は、当時世界一の座にあったといわれています。

銅生産に伴う煙害

明治維新後、新政府より経営を保証された住友は、フランス人技師ルイ・ラロックにより施設の近代化が図られました。それに伴い、採鉱量も飛躍的に増えたのですが、精錬の段階で発生する亜硫酸ガスにより、近隣に大規模な水稲被害が発生しました。農民と精錬所との間で紛争が絶えません。

煙害を避けるためには亜硫酸ガスを取り出すのが最良の方法ですが、技術力の乏しい時代でしたから、大量の煙を処理することはできません。明治28年(1895)、住友は新居浜市北方沖合20kmの無人島である四阪島を買収。170万円の巨費をかけて明治38年(1905)より精錬所の操業を開始しました。しかし精錬所が四阪島に移転したことにより、煙害は越智郡のみならず周桑郡、新居郡、宇摩郡と、東予地方全域が被害を被りました。
明治42年(1909)、当時の一流と呼ばれる学者たちで構成する鉱毒調査会から「硫煙希釈法」という新技術が提案されました。高い煙突から放出していた煙を数本の低い煙突で放出し、外気を混ぜて薄くするというものでした。こうすれば、煙の濃度が低くなり、遠くまで煙の被害が及ばないと考えたようです。大正4年(1915)までに6本の煙突が完成して稼働したのですが、薄められた煙は上昇せず、煙突の上で留まって四阪島一帯がより高濃度の亜硫酸ガスに覆われ濃度が高くなってしまうという失敗に終わりました。この方法は効果がないことがわかり、わずか2年半で6本煙突の使用は停止されています。

一流学者による改善方法は被害を増し、事態を更に悪化させました。東日本大震災の際の原発御用学者たちの発言を彷彿とさせるものがあります。
明治43年(1910)、愛媛県知事伊沢多喜男により調停案が出されます。精錬鉱量を制限するために短期の操業停止などが講じられ、住友と東予4郡の間で賠償協定と補償金が決定しました。賠償金は愛媛県に納められ、米麦専用の農事試験場である「採種場」の運営に当てられるとともに、被害額の割合で郡単位に配分されました。

煙害は昭和4年(1929)よりペテルゼン式硫酸製造装置が導入されます。の発生が抑えられ、昭和14年(1939)には硫黄酸化物をアンモニアで中和する工場が完成。これにより、煙害に悩まされることはなくなりました。

昭和2(1927)年、ペテルゼンと正式に特許実施契約を結び工事を実施。溶鉱炉の煙突から放出される亜硫酸ガスをアンモニア水で中和して、すべて亜硫酸アンモニアの溶液として回収するものでした。さらに選鉱操業の変更もあって、放出される亜硫酸ガスの量は減少。その濃度も希薄となり、実害を伴う煙害は見られなくなりました。昭和14(1939)年7月に大規模な中和工場が完成して以降、煙害の被害を根絶することができました。