土井中照がお送りする「ミラクルワールド=愛媛」のご紹介です。
歴史や民俗、食材、郷土料理、名産品、パワースポット、県民性など、びっくりする情報をお届けします。

道後温泉と皇族

道後温泉を訪れた皇族たち

伊予国の豪族たちは大和朝廷と深い関係を保っていました。この地域に皇族が多く訪れているのは道後温泉があるためで、これらの皇族のなかには、歴史学者によって実在を否定された人もいて、これらが本当のことだったかどうかは不明ですが、『伊予国風土記』と『日本書紀』には、五度の皇族来浴が記されています。
●景行天皇と皇妃八坂入姫
熊襲征伐の際の伊予の湯への来訪は伝承にすぎないという説が一般的です。
●仲哀天皇と神功皇后
三韓征伐の際に伊予の湯に立ち寄りますが、伝承ではないかとされています。
●聖徳太子
596年、恵慈、葛城臣と来浴し、伊佐爾波岡に温泉を褒め讃えた碑を立てました。聖徳太子は実在しなかったという説を唱える人もいます。この項は、次回に書かせていただきます。
●舒明天皇
639年、皇后とともに来浴。椹(むく)と臣(おみ)の木に稲穂をかけて、鵤(いかるが)や比米鳥(ひめどり)を飼育したといいます。
●斉明天皇と中大兄皇子・大海人皇子
661年、百済救援のため、九州那大津(博多湾)へ向かう途中に来浴しました。2カ月程駐留され、額田王の和歌は、この時に詠まれました。しかし、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本が新羅・唐連合軍に敗北を喫したためか、これ以降の皇族来浴はなくなってしまいました。

熟田津と道後

古代伊予国の港であった熟田津(にきたつ)は、いまに至るもその位置がはっきりしません。

『日本書紀』は、百済救済のため、661年1月14日に朝鮮半島へ向かう斉明天皇や中大兄皇子らの軍勢が伊予国熟田津の石湯へ着き、二カ月あまりをこの地で滞在したといいます。熟田津の名前を有名にしたのは、万葉集の代表的歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)の「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」の和歌です。

一行の熟田津来訪は、伊予の湯で保養し、兵士を補充することが主な目的だと考えられています。伊予に流され死んだ木梨軽皇子や道後の湯にちなむ聖徳太子の鎮魂のためとする梅原猛説、斉明天皇の聖水を求める宗教行事とする池田弥三郎説もありますが、熟田津が古代の瀬戸内海交通の拠点となっていたことは間違いのないことです。
「飽田津」とも「柔田津」とも書かれる熟田津の「熟田」は、よく手を尽して開墾された立派な田のことで、「津」は港を意味します。「にぎ」は「なぎ」に通じ、「荒れることのない海」を示すという説や、海神に奉幣することを「にぎたつ」ということから海の平安を願った地名だともいわれます。

熟田津がどこにあったのかに関しては、さまざまな説が立てられています。 

古代の政庁である久米官衙のあった小野川周辺説。山越まで海が湾入していたとする山越説。古い港として知られていた吉田浜説。山越から吉田浜に至るどこかに熟田津があったとする山越・吉田浜。海岸線は古三津にあったという古三津説。斎灘(いつきなだ)を臨む広い土地の和気・堀江とする説などがあります。

他にも、御幸寺山麓説、和気郡吉原郷説、高岡町~南斎院周辺説、松山平野運河説、風早説、今治説、東予の広江港説、西条説まで、熟田津にはありとあらゆる説があります。現在の道後温泉の近くにあったことは間違いないようですが、どれも決定的な根拠がなく、今後の研究や史料の発見が待たれています。古代の松山を研究して、熟田津の位置を証明することができれば、一躍有名人になることは間違いありません。

皇族が訪れたという地名

御幸は、639年に舒明天皇が道後温泉に行幸された際、この地が行在所(あんざいしょ)になったという伝説が残っています。寺にあった三本の大きな木から「三木寺」と呼ばれていた寺名が「みゆき」へと変化し、「御幸寺」に改名したことが地名の由来です。寺は行幸にちなみ、楠でつくられた身の丈一尺二寸の舒明天皇座像を御本尊にしました。寺のある山は、もともとの名前「みきじ」を生かして御幸寺山と呼ばれます。

正岡子規が「秋の山御幸寺山と申し天狗住む」と詠んでいるように、御幸寺山は天狗の住む山として知られています。『伊予温故録』には「同殿に愛宕・白山の二神を合祭せり」とあり、山には愛宕権現が置かれていたようですが、現在は御幸寺の本尊となっています。

愛宕神社は、霊山として知られる京都嵯峨の愛宕山にあり、修験道の行場として知られています。白山神社でも同様の山岳信仰が行われていました。天狗の伝説や愛宕権現など、修験道と関係が深い地域のようですが、御幸寺は真言宗の寺となっています。