熟田津と道後
古代伊予国の港であった熟田津(にきたつ)は、いまに至るもその位置がはっきりしません。
『日本書紀』は、百済救済のため、661年1月14日に朝鮮半島へ向かう斉明天皇や中大兄皇子らの軍勢が伊予国熟田津の石湯へ着き、二カ月あまりをこの地で滞在したといいます。熟田津の名前を有名にしたのは、万葉集の代表的歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)の「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」の和歌です。
一行の熟田津来訪は、伊予の湯で保養し、兵士を補充することが主な目的だと考えられています。伊予に流され死んだ木梨軽皇子や道後の湯にちなむ聖徳太子の鎮魂のためとする梅原猛説、斉明天皇の聖水を求める宗教行事とする池田弥三郎説もありますが、熟田津が古代の瀬戸内海交通の拠点となっていたことは間違いのないことです。
「飽田津」とも「柔田津」とも書かれる熟田津の「熟田」は、よく手を尽して開墾された立派な田のことで、「津」は港を意味します。「にぎ」は「なぎ」に通じ、「荒れることのない海」を示すという説や、海神に奉幣することを「にぎたつ」ということから海の平安を願った地名だともいわれます。
熟田津がどこにあったのかに関しては、さまざまな説が立てられています。
古代の政庁である久米官衙のあった小野川周辺説。山越まで海が湾入していたとする山越説。古い港として知られていた吉田浜説。山越から吉田浜に至るどこかに熟田津があったとする山越・吉田浜。海岸線は古三津にあったという古三津説。斎灘(いつきなだ)を臨む広い土地の和気・堀江とする説などがあります。
他にも、御幸寺山麓説、和気郡吉原郷説、高岡町~南斎院周辺説、松山平野運河説、風早説、今治説、東予の広江港説、西条説まで、熟田津にはありとあらゆる説があります。現在の道後温泉の近くにあったことは間違いないようですが、どれも決定的な根拠がなく、今後の研究や史料の発見が待たれています。古代の松山を研究して、熟田津の位置を証明することができれば、一躍有名人になることは間違いありません。 |