土井中照がお送りする「ミラクルワールド=愛媛」のご紹介です。
歴史や民俗、食材、郷土料理、名産品、パワースポット、県民性など、びっくりする情報をお届けします。

伊予国の一揆

一揆を起こす県民性

伊予国における百姓一揆を見ると、宇和島・大洲の両藩の南予地域に多く、とくに宇和島藩における件数が最も多くなっています。これに反して、東予地域ではあまり一揆が起こっていません。江戸時代の一揆は全国で約3200件ほど起こっているのですが、伊予は164件。六十余州において第2位(松山藩は34件)となっています。

ツービートが昔「赤信号みんなで渡れば怖くない」という言葉を流行らせました。どうして一揆が多いのかというと、みんなの気持ちを汲み、みんなと一緒に悪者を退治するという気持ちが愛媛県人は強いのではないかと思います。

その理由のほとんどが、農民たちの生活を圧迫したため、どうしようもない結果に陥ったため、一揆を起こしています。
特に、年貢を増やしたり、紙などの特産物の専売制を強化したり、特権商人と藩との癒着などによって産物が統制されたことが、農民たちの怒りをかったのでした。
松山藩の久万山騒動と吉田藩の武左衛門一揆を例としてあげておきます。

松山藩の久万山騒動

松山藩6代藩主・松平定喬の代、寛保元年(1741)7月5日から8月13日にかけて、久万山農民およそ3000人が隣藩大洲城下に逃散したという事件があります。逃散は百姓一揆の一つで、領主に反抗して他領に逃れようとするもので、領主側としては年貢は取れず、土地は荒れ、しかも悪政を天下にさらすことになるので非常に効果的でした。

しかし一揆を起こせば首謀者は死罪となるのがたてまえでしたから、これは生か死かの極限に追いつめられた場合の、最後の反抗と見るべきものです。

久万山一揆の前に農民たちが代官に懇願したのは、松山藩が定めた「紙方新法」で、村々では畑作と茶の外に、山畑へ楮を植えて紙を漉いて売り、生活野田市にしていました。財政困難となった松山藩は、この紙に目をつけて紙の専売に乗り出します。このことで楮か強制的に買上げられるとともに、農民たちに紙漉が強行されました。
しかし、藩はこの願いを取り上げようとはしませんでした。

農民たちは、これに抗議するために大洲藩に逃散私したというわけです。松山藩主の定喬は参勤交代の途上にあったため、郡奉行らが聞き届けるからと諭しますが、農民たちはは役人のいうことはいっさい聞かず、大洲城下にたどりつきました。

代官は、菅生山大宝寺の僧に取りなしを頼み、解決。農民たちは1か月ぶりに村に帰って来ました。藩の処分として、家老奥平久兵衛を生名島へ、紙方奉行穂坂太郎左衛門を二神島へ、物頭脇坂五郎右衛門を大下島へ流罪にしています。

吉田藩の武左衛一揆

武左衛門一揆は、江戸時代後期の寛政5年(1793)に南予の伊予吉田藩で発生したもので、吉田藩紙騒動とも呼ばれます。藩がとった専売制のために、御用商人が和紙生産を独占して、暴利をむさぼった結果が一揆に繋がりました。

3万石の吉田藩は年貢の取立てが厳しく、農民も大きく疲弊していました。
この一揆の7年前、天明の大飢饉で困窮していた農民を救おうと、神官の土居式部を中心とする一揆計画があったのですが、藩は忌避しい年貢の取り立てを緩めませんでした。
藩の紙専売制を担当していた法華津屋などの高利貸商人は、困窮した農民たちに、和紙の原料である楮を担保にした金を貸し付け、それを理由に紙を安価に見積もって返済させ、巨利を得ていました。
藩役人も高利貸商人と結託して私腹を肥やし、厳しい収奪を続けていたのです。

これに怒った農民たちが、2月9日に蜂起。参加した農民たちは5000人にも及び、郡奉行の制止を抑えて宇和島藩領に逃散したときは、8000人に増えていました。

宇和島藩の仲介で農民側の要求を受け入れ、専売制も緩和されますが、指導者の武左衛門は翌年捕らえられて処刑されています。武左衛門は、祭文語りに身をやつして農民たちの家を回り、組織作りをしたといわれます。