土井中照がお送りする「ミラクルワールド=愛媛」のご紹介です。
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伊佐爾波神社と伊佐爾波岡

伊佐爾波神社

伊佐爾波(いさにわ)神社は、松山市道後湯月谷に鎮座しています。主祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后(じんぐうこうごう)、田心姫命(たごころひめのみこと)、湍津姫命(たきつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)といった八幡神社に関係する神々で、徳川家康こと東照大神も配神されています。

仲哀天皇、神功皇后とともに道後温泉に行幸のとき沙庭を立てて天神の勅を請奉ったので沙庭神社、即ち伊佐爾波の神社と称され、湯月八幡宮の名もあります。皇后は、行宮に湯殿を設け、温泉を汲んで浴したので御懐妊になり、後の応神天皇が御誕生になられたといいます。

延喜式の神名帳に記載されている神社であり、越智玉興から13代のちの温泉郡司・元興によって建立。延久5年(1073)伊予国司・源頼義の命を受け、明応年中(1492〜1501)、河野親経が八カ所八幡宮の一つとして再建したと伝えられます。元は伊佐爾波岡にありましたが、南北朝のころ河野氏がここに湯築城を構えるに際して現在地に移されたといいます。

慶長8年(1603)、加藤嘉明が社殿を修理し、久米郡井合の土地百石を神社の社領として寄進しています。

現在の建物

近世の初めは松山城主加藤嘉明の崇敬が厚く、松山三代藩主・松平定長の時、流鏑馬の的を見事いることができるよう祈願し、これが成就したことから、社殿造営の工事を起こしました。3年の歳月をかけて寛文7年(1667)に現在の社殿が建築されました。定長は現在の社殿を建造し、社領二百石を寄進しています。

寛文4(1664)年6月に着手、大工697人、延べ人数69,017人を要し寛文7(1667)年5月15日に竣工。しめやかなうちにも華やかに遷宮式が挙行されたといわれています。

社屋は、京都の石清水八幡宮を模したと言われ、大分の宇佐神宮と並び全国に三例しかない整った八幡造りの社殿で、昭和31年6月本殿が国の重要文化財に指定、昭和42年6月全体が追加指定を受けました。
豪壮華麗な八幡造りで、大分県の宇佐八幡宮、京都府の石清水八幡宮と並んで国の重要文化財に指定されています。社殿は小丘上に建ち、眼下の道後から松山城、瀬戸の海が眺められます。

聖徳太子と伊佐爾波岡

『伊予国風土記』逸文によると、聖徳太子は法興6年(596)に高麗僧・恵慈(えじ)と葛城臣(かつらぎのおみ)を伴って、伊予の湯に来訪し、湯の効能と景色に感動して碑を「湯岡」つまり伊佐爾波岡に建てたといいます。

聖徳太子の碑文は、効用あらたかな温泉を神の温泉と褒め、温泉の周りの環境を「湯を囲んで生える椿は、枝を交えて繁っている。まるで鍛帳のように蓋を差しかざしているようだ。茂みの中から、心地よい小鳥のさえずりが聞こえ、まるで極楽のようだ。真紅に咲き誇る椿は、湯壷の上を濃い緑の葉を重ねて被い、温泉にその影を映している」と讃えています。

この碑を見ようと、たくさんの人がいざなってきたので、伊佐爾波と名づけたという伝承もありますが、神託をうける場所を示す「斎場(さにわ)が伊佐爾波となったのかもしれません。

現在も聖徳太子の碑がどこにあるのか、わかっていません。そのため、古より多くの人が幻の碑石を探してきました。半井梧庵(なからいごあん)の『愛媛面影』には、寛政年間の頃、温泉付近の不浄の地といわれる畑で穴を掘ったところ、碑が出てきましたが、そのために温泉の湯が濁りはじめたため、そのまま埋めたと記されています。

松山の風流人として知られた故富田狸通(りつう)さんの父君・喜平さんは、碑を求めて私財を投じ、碑石探しに半生を費やしました。喜平さんは神のお告げを聞き、伊佐爾波神社へ登る石段の七十三段目を掘ってみました。さびた刀は出てきましたが、碑は出てきませんでした。伊佐爾波神社の拝殿近くや石手寺の橋、放生池も探しています。息子の狸通さんも父親の遺志を継ぎましたが、結局のところ、碑は出てきませんでした。幕末の松山藩家老・水野某によれば、藩主も碑の噂を聞き、北海道までも探索の手を伸ばしたそうです。

江戸時代に、書や奇行で有名な明月和尚が、義安寺の薬師如来堂の下を調べたのが一番古い発掘のようですが、現在に至っても碑を発見することはできていません。

こうした思いを集めて、昭和二十八年(一九五三)、椿湯の庭にみかげ石の碑が建ちました。碑の揮毫は郷土史家の景浦稚桃氏によるものです。現在、この碑は「道後温泉別館 飛鳥乃湯泉」の椿の生い茂る神泉のイメージをデザインした中庭に建てられています。この碑に刻まれた文字は、太子自身が実際に書いた文字を一つひとつ集め、再構成したというから驚きですね。