聖徳太子と伊佐爾波岡
『伊予国風土記』逸文によると、聖徳太子は法興6年(596)に高麗僧・恵慈(えじ)と葛城臣(かつらぎのおみ)を伴って、伊予の湯に来訪し、湯の効能と景色に感動して碑を「湯岡」つまり伊佐爾波岡に建てたといいます。
聖徳太子の碑文は、効用あらたかな温泉を神の温泉と褒め、温泉の周りの環境を「湯を囲んで生える椿は、枝を交えて繁っている。まるで鍛帳のように蓋を差しかざしているようだ。茂みの中から、心地よい小鳥のさえずりが聞こえ、まるで極楽のようだ。真紅に咲き誇る椿は、湯壷の上を濃い緑の葉を重ねて被い、温泉にその影を映している」と讃えています。
この碑を見ようと、たくさんの人がいざなってきたので、伊佐爾波と名づけたという伝承もありますが、神託をうける場所を示す「斎場(さにわ)が伊佐爾波となったのかもしれません。
現在も聖徳太子の碑がどこにあるのか、わかっていません。そのため、古より多くの人が幻の碑石を探してきました。半井梧庵(なからいごあん)の『愛媛面影』には、寛政年間の頃、温泉付近の不浄の地といわれる畑で穴を掘ったところ、碑が出てきましたが、そのために温泉の湯が濁りはじめたため、そのまま埋めたと記されています。
松山の風流人として知られた故富田狸通(りつう)さんの父君・喜平さんは、碑を求めて私財を投じ、碑石探しに半生を費やしました。喜平さんは神のお告げを聞き、伊佐爾波神社へ登る石段の七十三段目を掘ってみました。さびた刀は出てきましたが、碑は出てきませんでした。伊佐爾波神社の拝殿近くや石手寺の橋、放生池も探しています。息子の狸通さんも父親の遺志を継ぎましたが、結局のところ、碑は出てきませんでした。幕末の松山藩家老・水野某によれば、藩主も碑の噂を聞き、北海道までも探索の手を伸ばしたそうです。
江戸時代に、書や奇行で有名な明月和尚が、義安寺の薬師如来堂の下を調べたのが一番古い発掘のようですが、現在に至っても碑を発見することはできていません。
こうした思いを集めて、昭和二十八年(一九五三)、椿湯の庭にみかげ石の碑が建ちました。碑の揮毫は郷土史家の景浦稚桃氏によるものです。現在、この碑は「道後温泉別館 飛鳥乃湯泉」の椿の生い茂る神泉のイメージをデザインした中庭に建てられています。この碑に刻まれた文字は、太子自身が実際に書いた文字を一つひとつ集め、再構成したというから驚きですね。 |