石手寺の歴史
四国霊場51番札所の石手寺は、松山市道後温泉の東方、石手二丁目にあります。寺伝によると、聖武天皇の神亀5年(728)の勅宣により、この地方の大領・越智玉純が伽藍を創建、法相宗で安養寺といいました。
弘仁4年(813)、真言宗の寺となり、寛平4年(892)に寺名を石手寺と改めます。
これを、衛門三郎の伝説に基づくと、次のような話になります。
伊予を治めていた河野家の一族に衛門三郎という豪農がいました。三郎はお金持ちで権力もありましたが、強欲で情けがなく、みんなからの人望もありませんでした。
ある時、みすぼらしい僧侶が三郎の家の門弟に現れ托鉢をしようとしまかす。三郎はその僧侶を追い返しました。その後、何日も僧侶は現れるのですが、三郎はその都度追い返していました。8日目になってもまだ僧侶が訪れるため、堪忍袋の尾が切れた三郎は、僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし、鉢を割ってしまいました。
以降、僧侶は現れなくなりました。
その後、三郎の家では不幸が続きます。8人の子供たちが毎年1人ずつなくなり、ついに全員がなくなってしまいました。
三郎はかつて追い返した僧侶が弘法大師であったことに気がつきました。
己の行動を深く後悔した三郎は、全てを人へ譲り渡し、お詫びをするために弘法大師を追って四国巡礼の旅に出かけます。しかし、20回巡礼を重ねても会えません。弘法大師と巡り合って和火を入れたい三郎は、それまでとは逆の順番で回ります。しかし巡礼の途中、徳島の焼山寺(12番札所)の近くで、病に倒れてしまいました。
死を目前にした三郎の前に弘法大師が現れます。三郎は過去の過ちを詫びました。
弘法大師が三郎に望みを聞くと「来世は河野家(愛媛の領主)に生まれ、人の役に立ちたい」という言葉を残して息を引き取りました。弘法大師は路傍の石を拾い「衛門三郎再来」と書き、その手に握らせました。
翌年、河野家に左手を握りしめた男の子が生まれました。両親がお寺へ連れて行き祈祷してもらうと、そこから「衛門三郎再来」と書かれた石が出てきました。
この子は、衛門三郎の生まれ代わりであるとして、その石を「玉の石」と名付け、石手寺に納めました。そして、寺名を熊野山石手寺と改めます。現在も「玉の石」は一般に公開されています。
また、石手寺の入り口脇に絵も三郎の石像が置かれてあり、訪れる人たちを出迎えています。
平安時代の延久5年(1073)、白河院に伽藍の再興を命じ等れた河野親経は、永久2年(1114)に護摩堂を建立、鐘楼などの修築をしています。この地方の有力な豪族であった河野通信は、伊予国守護職となりますが、承久の乱(1221)によって失脚。しかし弘安の役(1281)での戦功により旧領地を回復すると、道後に湯築城を造営します。寺にある楼門・本堂・三重塔・護摩堂・鐘楼・詞梨帝母天堂はこの時期に再建されたものです。
しかし、応仁の乱(1467)後の河野氏は内紛が続き、天正年間(1573〜92)に滅亡。保護者を失った石手寺は、伽藍を維持するのに苦労したといいます。
江戸時代になると、領主となった加藤嘉明は、阿弥陀堂を建立。三重塔の修理、諸堂を修復して、慶長6年(1601)には寺領を寄進しています。次いで松山城主となった蒲生忠知は、弥勒堂、大師堂を修理しました。
久松松平家の藩政では、諸堂の修理が行われています。 |