藤原純友を逮捕した橘氏
天慶3年(940)1月に、海賊たちは備中国、二月に淡路国府で兵器を奪います。朝廷では小野好古を山陽道追捕使に任命しますが、平将門の乱に手を取られ、瀬戸内海へ兵を送ることができません。この年の二月に藤原秀郷(ひでさと)らが平将門を殺害して、ようやく東国の乱を鎮圧。朝廷はようやく海賊追討に本腰を入れるようになったのでした。
しかし、朝廷は純友追討の意図はなく、部下のみを鎮圧しています。
ところが、配下の動向をただ眺めているだけだった純友は、八月に決起の行動を起こし、讃岐国府に放火して財物を奪います。そして備前、備後国で官船を焼き払い、十月に大宰府追捕使軍を安芸、周防国で破り、11月に周防の鋳銭司を襲いました。
海賊たちの活動は、紀伊国から土佐国までの広範囲に及び、たまらなくなった朝廷は、小野好古を追捕山陽南海両道凶賊使に任じ、更なる海賊鎮圧のための準備を整えました。
天慶4年(941)、朝廷軍が純友から離反した海賊・藤原恒利らの案内により、海賊たちの隠し砦を攻撃しはじめると、純友軍の勢いは次第に弱くなってきました。純友は、5月に太宰府を襲いましたが、筑前博多津で朝廷軍に敗れます。その際に捕獲された海賊舟は800艘、死傷者は数百人にも及びました。
純友は、ひそかに伊予国に逃げ帰りましたが、6月20日に伊予国警固使の橘遠保に捕えられ、獄中で死んだとも、その子・重太丸(しげたまる)ともども斬首されたといわれています。
純友を捕えた橘氏は、褒賞として与えられた宇和郡の地頭となってこの地を支配し、子孫は代々宇和郡の豪族となりました。現在の宇和島城のあるところに砦を築き、これが丸串城になったと伝えられます。 |