土井中照がお送りする「ミラクルワールド=愛媛」のご紹介です。
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松山城、元日の落雷

正月に落雷で焼失した松山城天守

今から約240年前。松山城天守は、天明4年(1784)の元日の夜に落雷で焼失しました。松山藩の軍学師・野沢象水が遺した『予松御代鑑』には「元日夜子刻。雷火ニテ松山御本城御焼失。翌二日卯刻鎮火」とあります。象水は落雷の際、藩主の松平定国に小姓として仕えていました。城に残る宝物を取りに戻りたいと定国に伝えると、「その方に勝る宝物はない」といって、城に帰ることを許さなかったと伝えています。

その他にも、火薬や弾薬を保管する煙硝蔵の屋根に上って類焼を食い止めようとする藩士たちに向かって、小出権之丞という藩士が「人こそ藩中第一の宝である。その宝を危険なことに使うことはできない。早く降りよ」と一同を煙硝蔵の屋根よりおろしたという話も残っています。

定国は、松山8代藩主の定静の子ども4人が幼くして亡くなったため、幕府の命令によって田安徳川家から養子を迎えました。8代将軍・徳川吉宗の孫で、弟は寛政の改革で知られる松平定信です。

菅原道真の祟りを恐れた定国

松山藩主の久松松平家の先祖は菅原道真です。太宰府に流され非業の死を遂げた道真は、雷神と化して天変地異を起こして朝廷に祟りをなし、左遷の原因となった藤原氏一門に死を与えました。学問の神様として信仰されていますが、道真は祟り神でもあったのです。朝廷は、「火雷天神」の称号を与え、道真の怒りを鎮めるために北野天満宮を建立しました。

つまり、雷は久松松平家の先祖ともいえる存在であり、他の家から久松松平家の養子となった定国は、天守を焼いた雷に怯えていたことでしょう。養子となることを拒否されたと考えたかもしれません。そのためか、定国は善政を行って藩の発展に努め、文化元年(1804)に天に召されています。

天守復興への道

10代藩主・定国の代に焼失した松山城天守は、天明4年(1784)6月29日に幕府に願い出て復興の許しを得ましたが、藩の財政難により着手できませんでした。

11代藩主・定通は、松山城郭の復興計画を練り、文政3年(1820)に工事を始めますが、16年後の天保6年(1835)に定通が死去し、作業場から失火するという事態に陥ったため、復輿は中断されました。

12代藩主・勝善は、弘化4年(1847)、設計に着手、翌年には鍬入れの式を挙行し、普請をはじめます。この年、常信寺、味酒神社、東雲神社で建築成就の祈祷が行われ、作業場がつくられました。8月8日の吉日にはじまった本丸普請は、嘉永5年(1852)に城郭が完成、落成の式典は安政元年(1854)2月8日に行われ、城下の70歳以上の老人に酒肴がふるまわれています。

定行時代のままに複興された天守は、江戸時代の最も新しい現存天守として、再びその威容を見せたのでした。