天守復興への道
10代藩主・定国の代に焼失した松山城天守は、天明4年(1784)6月29日に幕府に願い出て復興の許しを得ましたが、藩の財政難により着手できませんでした。
11代藩主・定通は、松山城郭の復興計画を練り、文政3年(1820)に工事を始めますが、16年後の天保6年(1835)に定通が死去し、作業場から失火するという事態に陥ったため、復輿は中断されました。
12代藩主・勝善は、弘化4年(1847)、設計に着手、翌年には鍬入れの式を挙行し、普請をはじめます。この年、常信寺、味酒神社、東雲神社で建築成就の祈祷が行われ、作業場がつくられました。8月8日の吉日にはじまった本丸普請は、嘉永5年(1852)に城郭が完成、落成の式典は安政元年(1854)2月8日に行われ、城下の70歳以上の老人に酒肴がふるまわれています。
定行時代のままに複興された天守は、江戸時代の最も新しい現存天守として、再びその威容を見せたのでした。 |