土井中照がお送りする「ミラクルワールド=愛媛」のご紹介です。
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村上水軍・その1

村上氏のルーツ

 村上氏は、信濃国更級郡村上郷の発祥で清和源氏、八幡太郎義家の祖父である源頼信の流れを汲むと伝えられます。村上氏の始祖は源仲宗といわれ、信濃に移った顕清の子の為国が村上と称し、為国の弟の定国が伊予村上氏となりました。

定国から七代のち・村上義弘は「河野十八家大将の随一」と呼ばれますが、義弘には子がなく、清和源氏の血は途絶えてしまいます。しかし、南朝の武将・北畠親房の意を汲んだ信濃村上氏の師清があとを継ぎ、村上源氏・北畠親房の子孫と称し、北畠顕成を名のります。始祖・仲宗の父・頼清の妻は、村上天皇の血を引きますから、村上源氏とすることも、あながち間違いではありません。

師清の子は、長男・義顕が能島、二男・顕忠が来島、三男・顕長が因島の三家に分かれます。能島村上氏の城砦は、大島と伯方島の間にある能島を中心に大島、伯方島の水軍城、国分山城、新居大島と中国筋の笠岡城など。来島村上氏は、来島を根城に、野間郡(今治市)の宮崎城、怪島城、高仙山城、風早郡(松山市/北条市)の鹿島城、恵良山城、岩城亀山城など。因島村上氏は、因島から中国地方にかけて活躍しています。

のちに、能島・因島村上氏は、毛利氏のもとで船手組として働き、来島村上氏は来島を姓として大名となり、関ヶ原の戦いで西軍に属したため、豊後国森へ転封され「久留嶋」と改姓しました。

海賊が跋扈した瀬戸内海

9世紀になると、朝廷の力は地方に及ばなくなり、治安が乱れてきました。生活に困窮した島民たちは、航行する船を襲って積み荷を奪うという海賊行為を行なうようになりました。瀬戸内海において海賊行為が本格化するのは、9世紀半ばの貞観(じょうかん)年間です。『三代実録』の貞観9年(876)の項に「伊予国宮崎村海賊群居掠奪尤切…」と記され、瀬戸内近海に多くの海賊集団が跋扈(ばっこ)していたことが、この記述でうかがえます。

天慶2年(939)に起こった藤原純友の乱では、瀬戸内の海賊が集団化して決起しました。このように律令国家体制が緩んでくると、地方の有力者たちは自分たちの身を守るために武士団を結成します。

『予章記』によれば、越智郡押領使の越智好方は、天慶2年(923)におこった藤原純友の乱を鎮圧するため、新居郡大島(新居浜市)に流されていた村上氏を起用しました。村上氏は、300余りの軍船を率いて、九州方面での戦いに活躍したと書かれています。

伊予国では、藤原純友の乱を鎮圧した功により越智用忠(もちただ)が叙位を許されたのを筆頭に、河野氏・新居(にい)氏・別宮氏などが台頭しました。特に、河野氏は風早(かざはや)郡を在地として、その勢力を拡大していきました。

武士の台頭と南北朝時代

伊予国の豪族・河野氏は、源氏に協力して平氏追撃に大きな役割を果たしました。鎌倉幕府樹立後、幕府に反旗を翻した後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に味方して承久の乱(1221)を起こしたために流罪となりますが、元寇(げんこう)の際には「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれるほど勇猛果敢に戦い、伊予の所領を取り戻しました。

このころ、村上定国(さだくに)の子・清長(きよなが)は伊予大島を臨む亀老山(きろうさん)の山頂に隈ヶ嶽(くまがたけ)城を築いたといわれていますが、史料は乏しく、本当かどうかはよくわかりません。

延元元年(1336)、足利尊氏は後醍醐天皇と別系統にあたる天皇(北朝)を擁立し、ふたつの朝廷が存在する南北朝時代が始まりました。武士たちは、公家方の南朝と武家方の北朝に分かれて、互いの力を競いました。

延元3年(1338)、南朝方の北畠顕家(きたばたけあきいえ)・新田義貞が相次いで戦死して北朝方が優位に立つと、南朝方の北畠親房(きたばたけちかふさ)は忽那氏・土居氏・得能(とくのう)氏らと連携して、瀬戸内海を掌握しようとしました。延元4年(1339)、征西将軍宮懐良親王(かねよししんのう)は五條頼元(ごじょうよりもと)・冷泉持房(れいぜんもちふさ)らを伴って忽那島に入ります。親王の在島期間はたった3年でしたが、忽那島やその周辺で幾度も激しい戦闘がくり広げられ、南朝方はいくらか優位に立つことができました。

懐良親王が忽那島に入島される前、大島に立ち寄ったという伝承があります。親王の一行は、田中神社(吉海町本庄)に参詣して武運長久を祈願し、白銅の鏡や十六弁菊花紋、五・七の立桐の沈金紋が入った盥(たらい)、備前長船(びぜんおさふね)清光の太刀、来国俊(らいくにとし)の短刀、錦の御旗などを奉納したというのです。

この後は、明日の「村上義弘と三島村上氏」に続きます。