武士の台頭と南北朝時代
伊予国の豪族・河野氏は、源氏に協力して平氏追撃に大きな役割を果たしました。鎌倉幕府樹立後、幕府に反旗を翻した後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に味方して承久の乱(1221)を起こしたために流罪となりますが、元寇(げんこう)の際には「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれるほど勇猛果敢に戦い、伊予の所領を取り戻しました。
このころ、村上定国(さだくに)の子・清長(きよなが)は伊予大島を臨む亀老山(きろうさん)の山頂に隈ヶ嶽(くまがたけ)城を築いたといわれていますが、史料は乏しく、本当かどうかはよくわかりません。
延元元年(1336)、足利尊氏は後醍醐天皇と別系統にあたる天皇(北朝)を擁立し、ふたつの朝廷が存在する南北朝時代が始まりました。武士たちは、公家方の南朝と武家方の北朝に分かれて、互いの力を競いました。
延元3年(1338)、南朝方の北畠顕家(きたばたけあきいえ)・新田義貞が相次いで戦死して北朝方が優位に立つと、南朝方の北畠親房(きたばたけちかふさ)は忽那氏・土居氏・得能(とくのう)氏らと連携して、瀬戸内海を掌握しようとしました。延元4年(1339)、征西将軍宮懐良親王(かねよししんのう)は五條頼元(ごじょうよりもと)・冷泉持房(れいぜんもちふさ)らを伴って忽那島に入ります。親王の在島期間はたった3年でしたが、忽那島やその周辺で幾度も激しい戦闘がくり広げられ、南朝方はいくらか優位に立つことができました。
懐良親王が忽那島に入島される前、大島に立ち寄ったという伝承があります。親王の一行は、田中神社(吉海町本庄)に参詣して武運長久を祈願し、白銅の鏡や十六弁菊花紋、五・七の立桐の沈金紋が入った盥(たらい)、備前長船(びぜんおさふね)清光の太刀、来国俊(らいくにとし)の短刀、錦の御旗などを奉納したというのです。
この後は、明日の「村上義弘と三島村上氏」に続きます。 |