村上武吉
『河野分限録』の記述によると、天正3年(1675)に能島の村上武吉、来島の村上通康、因島の村上吉光らは、河野氏配下の大将十八家のうちに挙げられ、御船大将と記されていますが、村上水軍はつねに河野氏の統制下にあったわけではありませんでした。
弘治元年(1555)の「厳島合戦」は、陶晴賢の謀反にあって滅亡した大内氏の弔い合戦として、毛利元就が陶晴賢を攻めた戦いです。陶晴賢は毛利方についた己斐直之や坪井元政を攻撃しようと、9月21日に500余隻の軍船・2万の兵力で厳島に上陸しました。それに対する毛利軍は陶軍にはるかに劣る5000の兵。来島・能島の村上氏に応援を頼みましたが、頼みの水軍はなかなか現れません。『小早川家文書』によると、三家は態度をなかなか明らかにせず、決戦直前に300艘の水軍が到着したとありますが、参加しなかったという説もあります。
同月30日、毛利軍は嵐の夜に厳島上陸し、背後から本陣を攻撃。嵐ということもあって油断していた陶軍は総崩れ。陶晴賢は厳島を脱出しようとしましたが、村上水軍が海上を守っていたために果たせず、自刃したといいます。
元亀元年(1570)の姉川合戦で、石山本願寺が浅井長政を支援していたことがわかり、信長は本願寺を攻めることにしました。これがいわゆる石山合戦のはじまりで、この戦は11年間も続きました。和田竜著『村上海賊の娘』の舞台です。
『毛利家文書』や『因島村上文書』によれば、天正4年(1576)、毛利方の水軍と織田信長軍が、大坂木津川口で交戦したとき、村上氏は毛利水軍に加わりました。安芸の毛利輝元は、援軍も兵糧もない状態に陥った石山本願寺を救おうと、軍船を編成。武吉は息子の元吉とともに木津川口に船を移動し、兵器と兵糧を運ぼうとしているところに、伊勢の九鬼嘉隆を総大将にした織田水軍が襲いかかってきました。毛利水軍は炮烙と火矢で攻撃すると、織田水軍の軍船のほとんどが焼き崩れたといいます。
これに怒った信長は、九鬼嘉隆に命じて長さ13間(約23m)、幅7間(約13m)の鉄甲船6艘を建造させました。天正6年(1578)、石山本願寺は毛利水軍に再び兵糧の搬入を要請します。武吉の到着を待っていたのが、九鬼嘉隆を総大将とする織田水軍でした。毛利水軍は同じように炮烙と火矢で攻撃しますが、燃えにくい鉄甲の威力で、戦果を挙げることはできませんでした。毛利水軍は、織田水軍の鉄甲船から大砲の一斉砲撃を浴びせかけ、毛利水軍は逃げ帰らねばなりませんでした。 |