土井中照がお送りする「ミラクルワールド=愛媛」のご紹介です。
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村上水軍・その2

村上義弘と三島村上氏

村上義弘は、海の英雄として広く郷土の人々に知られていますが、『予章記(よしょうき)』にのみ名が登場するため、伝説上の人物とみなされています。

伝承では、村上義弘に嗣子がなかったことから内部抗争が起こり、南朝の中心人物だった北畠親房(きたばたけちかふさ)が北朝方への転身を憂慮して、北畠顕家の嫡男・顕成(あきなり)を派遣し、南朝方水軍の復興を図ったといいます。顕成の一行は紀伊国雑賀浦を船出し、讃岐国塩飽(しわく)島・備後国神島を経て伊予国に入り、務司(むし)城に押し寄せて義弘の残党を退治して首領となり、義弘の跡目を継承し、村上師清(むらかみもろきよ)と名乗ったというのです。ただし、北畠氏の正式な系図によると、顕家の嫡子に顕成や師清という人物は見当たりません。

 師清の子は、長男・義顕が能島、二男・顕忠が来島、三男・顕長が因島の三家に分かれます。能島村上氏の城砦は、大島と伯方島の間にある能島を中心に大島、伯方島の水軍城、国分山城、新居大島と中国筋の笠岡城など。来島村上氏は、来島を根城に、野間郡(今治市)の宮崎城、怪島城、高仙山城、風早郡(松山市/北条市)の鹿島城、恵良山城、岩城亀山城など。因島村上氏は、因島から中国地方にかけて活躍しています。

村上武吉

『河野分限録』の記述によると、天正3年(1675)に能島の村上武吉、来島の村上通康、因島の村上吉光らは、河野氏配下の大将十八家のうちに挙げられ、御船大将と記されていますが、村上水軍はつねに河野氏の統制下にあったわけではありませんでした。

弘治元年(1555)の「厳島合戦」は、陶晴賢の謀反にあって滅亡した大内氏の弔い合戦として、毛利元就が陶晴賢を攻めた戦いです。陶晴賢は毛利方についた己斐直之や坪井元政を攻撃しようと、9月21日に500余隻の軍船・2万の兵力で厳島に上陸しました。それに対する毛利軍は陶軍にはるかに劣る5000の兵。来島・能島の村上氏に応援を頼みましたが、頼みの水軍はなかなか現れません。『小早川家文書』によると、三家は態度をなかなか明らかにせず、決戦直前に300艘の水軍が到着したとありますが、参加しなかったという説もあります。

同月30日、毛利軍は嵐の夜に厳島上陸し、背後から本陣を攻撃。嵐ということもあって油断していた陶軍は総崩れ。陶晴賢は厳島を脱出しようとしましたが、村上水軍が海上を守っていたために果たせず、自刃したといいます。

元亀元年(1570)の姉川合戦で、石山本願寺が浅井長政を支援していたことがわかり、信長は本願寺を攻めることにしました。これがいわゆる石山合戦のはじまりで、この戦は11年間も続きました。和田竜著『村上海賊の娘』の舞台です。

 『毛利家文書』や『因島村上文書』によれば、天正4年(1576)、毛利方の水軍と織田信長軍が、大坂木津川口で交戦したとき、村上氏は毛利水軍に加わりました。安芸の毛利輝元は、援軍も兵糧もない状態に陥った石山本願寺を救おうと、軍船を編成。武吉は息子の元吉とともに木津川口に船を移動し、兵器と兵糧を運ぼうとしているところに、伊勢の九鬼嘉隆を総大将にした織田水軍が襲いかかってきました。毛利水軍は炮烙と火矢で攻撃すると、織田水軍の軍船のほとんどが焼き崩れたといいます。

これに怒った信長は、九鬼嘉隆に命じて長さ13間(約23m)、幅7間(約13m)の鉄甲船6艘を建造させました。天正6年(1578)、石山本願寺は毛利水軍に再び兵糧の搬入を要請します。武吉の到着を待っていたのが、九鬼嘉隆を総大将とする織田水軍でした。毛利水軍は同じように炮烙と火矢で攻撃しますが、燃えにくい鉄甲の威力で、戦果を挙げることはできませんでした。毛利水軍は、織田水軍の鉄甲船から大砲の一斉砲撃を浴びせかけ、毛利水軍は逃げ帰らねばなりませんでした。

秀吉の工作

備中高松城攻めの2年前、秀吉は来島村上氏を仲間に引き込もうと、来島の村上吉継(よしつぐ)あてに誘いの書状を送っています。この誘いに乗った来島村上氏の統率者・村上通総(みちふさ)は、河野氏の女婿(おんなむこ)であった父の通康(みちやす)が河野氏の家督を継ぐという約束を河野家臣団の反対により反古にされたという過去があったため、河野家に対して反抗心を持っていたといいます。通総と武吉は、通総の姉が武吉のところに嫁いでいるため、義兄弟の関係になります。父の通康が死去したとき、武吉が通総の後見役をつとめていたので、通総が織田方に走るのを阻止したという伝承があります。

 備中高松城攻めが一段落した6月27日、能島村上氏と来島村上氏は大浦之鼻で戦い、以後、能島村上氏は来島支配下の城や砦を次々と攻め落としていきました。通総は逃亡を余儀なくされ、秀吉のもとに身を寄せました。天正12年(1584)、秀吉の後ろ盾を得た通総が来島に帰ってきました。

 天正13年(1585)3月、紀州根来(ねごろ)寺の雑賀衆(さいかしゅう)を攻め平らげた秀吉は、四国に狙いを定めました。伊予国の河野氏を降伏させて四国をほぼ手中に収めようとしている長宗我部(ちょうそかべ)氏を屈服させるため、弟・秀長(ひでなが)を総大将にして、翌月に約10万の大軍を四国に送りました。小早川隆景に率いられた約3万の伊予攻撃軍は、7月中旬に新居浜に上陸し、以後新居郡の諸域を破ります。別軍である吉川元春(きっかわもとはる)の軍も川之江の仏殿域を落としました。秀吉に従う通総らの来島村上氏が、これら小早川軍の先鋒を務めています。

 勝利を手にした秀吉は、これを天下統一の足がかりとしました。この戦いに従軍した通総は、秀吉から来島海峡の支配権を委ねられ、鹿島を居城に風早郡と旧領の野間郡とあわせ1万4000石、兄・得能通之も風早郡に3000石の所領を与えられています。武吉は、来島海峡の武志・中渡両島を来島村上氏へ明け渡し、屋代島への退去を余儀なくされました。

この後は、明日の「海賊禁止令後の村上水軍」に続きます。