土井中照がお送りする「ミラクルワールド=愛媛」のご紹介です。
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村上水軍・その3

海賊禁止令

天正16年(1588)7月8日、豊臣秀吉は全国に刀狩令と海賊禁止令を発しました。海賊禁止令は3ヵ条からなり、第1条「諸国海上において賦船の展、堅く停止の処、こんど備後伊予両国の間、伊津喜嶋(いつきじま)にて盗船つかまつるの族、これあるの由、聞こしめされ曲事に思しめされし事」とあり、第2条と第3条は、全国の船頭、猟師など住民を、その地で管轄して犯罪をおかさぬようにすることとを命じています。海賊行為が行われれば、その地の領主の知行を召し上げるという厳しいものでした。この令以後、従来海賊をおこなっていた者は、船員や漁師としての生業(なりわい)に専念するようになり、「海賊衆」の姿はほとんどみられなくなりました。

 この年の9月8日、秀吉から小早川隆景に対して「能島氏が最近海賊を働いたとかいうが言語道断の行為だ」という書状が出されています。小早川隆景に処置は任せられましたが、「野島(武吉)が海賊行為を働いているようだから処分し、赤間(あかま)関以東に居住させてはならない」という秀吉からの厳命があり、武吉は周防(現山口県)の日本海側にある大津郡に移住しました。

文禄・慶長の役

小早川隆景(こばやかわたかかげ)に仕えた武吉(たけよし)と元吉(もとよし)、景親(かげちか)は、秀吉の朝鮮出兵に際して兵たちを輸送し、海上警固の仕事に当りました。

文禄元年(1592年)には、小早川兵1万、久留米兵1500、立花兵2500その他併せて1万5000の大軍を朝鮮に送りました。そののち、この年の6月には、茂渓津(ムジェンシン)の城砦が孫仁甲の率いる300余の襲撃を受けたときにこれを死守。景親は足に重傷を負いますが、任務をまっとうしたことで毛利氏より感状と褒美が送られています。

 一方、来島通総(くるしまみちふさ)と兄の得居通之(とくいみちのり)は、四国の諸大名によって構成された5番隊に組み入れられて渡海しました。しかし、李舜臣(イ・スンシン)軍のもつ朝鮮火砲の威力や亀甲(きっこう)船の登場などにより、日本水軍は連敗を続けました。6月6日、李舜臣軍に遭遇した時、矢を射られて戦死した人物が来島通総の兄・得居通之ではないかともいわれています。文禄の役の後に小早川隆景が隠居。景親は養嗣子・秀秋(ひであき)に仕えていましたが、秀秋のもとを辞して、毛利輝元(もうりてるもと)に仕えました。輝元は、景親に安芸(あき)蒲刈(かまがり)島を与えています。

 文禄2年(1593)から始まった日本軍と明軍との講和は不調に終わり、慶長2年(1597)から「慶長の役」が始まります。来島通総は、6番隊に編成され、約600人を率いて出動しました。この年の9月16日、「鳴梁(ミョンリャン)の海戦」の最中、通総が矢傷を負って戦死します。37歳の若さでした。

 芸予諸島から退去を命ぜられていた能島村上氏の当主・元吉は、慶長3年(1598)に秀吉が死去すると再び瀬戸内に帰ることができました。毛利輝元から竹原を所領として与えられ、安芸の鎮海山(ちんかいざん)城に拠りました。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのとき、能島村上家は村上景親が出陣しました。父・武吉の従兄弟(いとこ)である備中笠岡城主の村上景広(かげひろ)らとともに西軍につきました。元吉と景親は西軍の総帥である毛利輝元(もうりもとてる)から西軍方である阿波の猪山(いのやま)城の攻略を命じられました。任務を果たした景親は、景広とともに上方に出陣し、伊勢の津城を攻める西軍の海上支援を命じられました。

一方、元吉は、毛利輝元の命により加藤嘉明(かとうよしあき)が支配する伊予松前(まさき)城の攻略に向かいました。毛利家の重臣である宍戸、桂、木梨の各将と因島の村上吉忠(よしただ)とともに伊予の三津(みつ)浜に上陸。河野水軍の残党が呼応し、旧大洲内子城主だった曽根景房(そねかげふさ)の案内で松前城に向かいました。

加藤嘉明は関ヶ原の戦いに出陣していたため、城を弟の忠明(ただあき)に預け、家老の佃十成(つくだかずなり)がこれを補佐。上陸した毛利軍は、豊臣秀頼(とよとみひでより)の朱印状を見せ、開城を迫りました。家老の佃は、「開城するが妻子が逃れる時間が欲しい」というので、古三津の刈屋口(かりやぐち)で夜営することに決めました。酒と肴を持って陣中見舞いに来た地元の農民たちに惑わされて油断していた毛利軍を、松前の軍勢が夜半から朝にかけて襲いました。元吉と吉忠は、この戦いで命を失い、名だたる部将が戦死しました。総大将の宍戸景世(ししどかげよ)は、生き残った毛利の兵を率いて戦いましたが、関ヶ原で西軍が敗れたことを聞き、安芸へ逃げ帰りました。伊予の人びとは、このことを「竹原崩れ」と呼んでいます。

こののち、武吉は元吉の遺児・元武を連れて周防屋代島へ移りました。

徳川政権下の村上氏

村上景親(かげちか)は、伊勢と尾張の海域でめざましい戦果を挙げましたが、関ヶ原の西軍敗北でその功績は霧のように消えてしまい、屋代島の和田へ退去しました。彼は戦死した元吉の遺児・元武を後見してわが娘を嫁がせました。能島村上氏は、のちに毛利藩船手組の組頭を務め、寄組の待遇を受けました。

武吉は、屋代島にある内入(うちのにゅう)の城山(じょうやま)のふもとが、ふるさと能島の眺めによく似ているとして居を構え、慶長9年(1604)8月に没しました。墓は屋代島の亀尾山大龍寺に葬られました。寺の名は、今では元正寺となりましたが、武吉と妻の墓が宝篋印塔として遺されています。武吉以後、能島村上氏の菩提寺は屋代の龍心寺と変わり、子孫とともに供養されています。

武吉の次男・景親は、豊前の細川家から1万石で、また備前の池田家から3万石で召しかかえるという誘いがあったものの、毛利氏の恩顧を理由に断っています。景親は慶長15年(1610)2月9日に逝去しました。

来島氏は、通総の次男・康親(やすちか)が跡を継ぎました。かつての海賊大将は、山の中の森藩主として豊後国(大分県)の玖珠(くす)・日田(ひた)・速見(はやみ)一帯の大名となり、元和2年(1628)には来島を久留島と改めます。明治維新ののちは子爵になりましたが、村上氏を名のることはできませんでした。