享保の大飢饉がきっかけの久万山騒動と狸伝説
享保17年(1732)に起こった享保の大飢饉は、長雨による天候不順とウンカにより、農作物に大きな被害を与えました。食べるものがなくなった農民たちは城下へ押し寄せたため、松山藩は幕府から1万2000両を借り入れました。
この翌年、藩主が松平{定喬|さだたか}に代わってすぐ、家老の奥平藤左衛門は飢饉の不始末のために久万山蟄居となり、部下の山内与右衛門は切腹となります。この政変で奥平久兵衛が家老となり、藩内に勢力を伸ばしていきました。寛保元年(1741)に農民3000人が大洲領へ逃散した久万山騒動という一揆が起こったのは、久兵衛が農民たちへ過酷な税を課したためでした。藩は、久兵衛を生名島へ流罪とし、山内与右衛門を無実の忠臣として神社を建立しています。
この事件をもとに狸が活躍するのが「伊予八百八狸」の物語です。松山市久谷町には、隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)が閉じ込められたという洞窟跡に「山口霊神」が建てられています。
この物語には『稲生物怪録(いのうもののけろく)』の稲生武太夫が登場します。『稲生物怪録』は、備後三次(現広島県三次市)藩士の息子・稲生武太夫が寛延2年(1749)に体験したできごとを記録したもので、国学者の平田篤胤が紹介して全国に広まりました。
16歳の武大夫(平太郎)は、比熊山の古塚で百物語に興じたため、妖怪変化が一ヵ月にわたり現れますが、少しもたじろがずその期間を過ごしたため、魔王の山本(さんもと)五郎左衛門から槌を授けられます。この槌で北の方角の柱を打てば、山本が加勢に駆けつけるというのです。武太夫は怪力自慢として知られ、三次市にあったという屋敷跡には石碑が建立されています。 |